運河の音楽感想24

浜山ハンドベルグループの演奏の際に、指揮を担当された藤代さんの感想です。


先日は楽しい機会を与えてくださり、有難うございました。高齢者も疲れながら、いきいきとした顔になっていました。
 本当のことを言いますと、「幻聴」という言葉は職業がら病気により聞こえるものと、不安なものと、あまり良いイメージではありませんでした。当日の演奏では、頭の中では考えも付かない音が数々と飛び出し、流れ、音の無い音楽も重なり、新鮮な気持ちと、戸惑う気持ちが入り混じりました。何とか終了し、ホッとしました。
 この演奏を目を閉じて聴いていると、不思議に心が落ち着きました。センター職員にも同様に聞いてもらったところ、「頭の中で雲が出てきたり、急に寂しくなったり、天から光が見えたり、海が見えたり、心が和んだ。」と言ってもらいました。
 この幻聴音楽を聴いて、型にはまらない想像ができると分かりました。自然と自分自信の想像力に酔いしれることができると思い、「幻聴音楽」を聴くということはすばらしいことだと思いました。私自身もこのプロジェクトに参加していなかったら解らなかったと思いました。感謝しています。有難うございました。

運河の音楽感想23

兵庫運河のドンとも言える名村さんの感想です。ボートに関することなど多大なご協力をいただきました。


運河の音楽は残念ながら全部は聴けなかったけど、一部分だけでも満喫できました。いつも見慣れている運河の新しい部分(隠された部分?)を見ることが出来たような気がします。おっさんばかりで「ボートの仕事」という同じことの繰り返しをやっている中でスタッフの学生たちや出演者の人たちの新鮮な息吹を感じて動くことが出来ました。
 運河には今回見せた部分以外にもいっぱいいろんなところがあります。その部分を見てもらいたいし感じてもらいたい。私もそこを見てみたいと思います。気が向いたらまたこんなイベントをやってもらいたいです。「今年できたからまた来年・・・」でなく、あんなことがしたい、こんなことがしたい、もっとこんなことがやってみたかった・・・と思ったら、またぜひやってください。応援します

運河の音楽感想22

現役の製材工場の中でおこなわれた、「製材工場を聴く」の制作者中嶋さんの感想です。



「運河の音楽」の感想として

 「中嶋のんと」して約1年ぶりのアートワークでした。六甲山牧場や湊川隧道でイベントをしてから3年かけて神戸港。そして1年後に兵庫運河へとたどり着きました。「運河」という空間がすべてを受け入れてくれた感じがします。個人的感想を言えば、楽しいイベントで満足いくものでした。よくもまぁ三ヶ月という短期間でここまでというイベントを開けたもんだと感心しております。そういえば、自分が4年前の隧道のイベントをしたときもこんな感じだったような気がします。学生のパワーというものが短期間という逆境を乗り越えていく。そんな感じがします。
 こういうイベントでいつも絶えず思うのは「マン(人)パワー」の重要性。最終的に人が多ければ多いほど、なんでもできる。例えば、準備や撤収の時とかチラシを巻くとか、単純作業の数が何百とあるときとか様々。あとはコントロールできる人がいれば、さらに効率的にできることでしょう。今回なかなか上手くかみ合っていない点は様々なトコロが見受けられたようにも思えるが、学生というパワーで押し切っているような感じがする。
 連絡をいただいたのはイベントの2ヶ月前。インスタレーション部門として声がかかり、実際にスタッフと会った印象はしっかり取りまとめる人がいないというのが初めの印象。それでも時間がないながら一人一人が自分のできることを一生懸命やっている。これが重要なことで、スタッフ全員が一生懸命できることというのはそうないと感じます。
 ただし、気がかりだったことが一つ。「確認」をしっかりしていない点について、少し気にはなりました。こういうイベントの際、一つの間違いが全てを台無しにしてしまうことも有り得るのです。僕的には一番してほしくないことですが、パンフレットの出演者の欄に名前が無かったという点。忙しかったとはいえ印刷に出す前に関係者に見せて頂きたかった。というのが正直なところです。挟み込みという手法で間に合わせましたが、その作業はスタッフみんなが作業してたことには、やはり「マンパワー」というのは重要だなと思いました。
 やっておけば良かったというのはたくさんあります。例えば、作品の箇所に作品紹介の看板のようなものを立てたりとか順路を示す看板を立てるとか、スタッフの配置を徹底するとか。そう言うことによって寄り良いイベントになったことだと思います。ただ、こういう「たら」「れば」「ときに」は過去のものです。「次何ができる?」ということが大切で、もっと楽しいことが次に待っていると思えたら、それはすごく良いイベントであると感じます。そういう次々とおこるイベントがまちづくりに発展するものであると思います。
 最後にゲストアーティスト野村幸弘さん、神大の学生スタッフの皆様、関係者各位、お疲れさまでした。楽しくイベントに集中できました。感謝の気持ちでいっぱいです。
 さて、次はどんなことしましょうか?

運河の音楽感想21

法螺貝とともにオープニングを飾った、浜山ハンドベルグループの清水さんの感想です。


「運河音楽祭に出場して」

 浜山ハンドベルグループの主役を若し問われれば、みんな主役ですとしか云い様がない。なぜなら、地域高齢者対稱のふれあい給食会の中から産ぶ声を挙げたこのチーム、そのふん囲気のなかで培われた協力・協働のこころが、このチーム一人一人に主役精神を養わせて来たと思えるからです。
 それにしてもわいわい・がやがやと、一つの目標を取り巻き、最善の努力を注ぎ、注ぎつづけているのが浜山ハンドベルグループだと思っています。
 グループが結成されて五年にならうとする今何気負うこともなく、月一回、児童も混えた二時間足らずの定例練習会で、今回の様な運河音楽際と云う一大イベントに、おこがましくも出場して、一寸気恥ずかしい気もする中で、自分自ら楽しみ、見ておられる方々や、聴いていただいている方々が一緒になって楽しんでいただけるなら、これ以上の喜びはないと、厚かましくも考えると共に、これを又一つの契機として、グループ一人一人に頑張り精神が新たに育ってゆく確かな手応えを感じたのは、この上もない収穫だったと思ふところです。
 これからは更にこれをばねにして、今後一層地域の中でふれあいの輪を広げていける様、努めたいと、気持ちを引き締めています。

運河の音楽感想20

ハーモニカ奏者の木村さんの感想です。運河沿いで佇むように演奏する姿は、道行く観客のみなさんの目をひいていました。


「運河と音楽のイベントに参加して」

ハーモニカ 木村利雄

人間の営みと水との係わり…そして力強く展開してきた文化と歴史を表現する兵庫運河を背景としたイベントに、ハーモニカ奏者として参加させて頂きましたが、私はもっぱら人間が長い歴史の中で培ってきた創造力と心を想い浮かべながら演奏いたしました。
壮大なる大自然(河)の中に人間の生きる音が聴こえる…。生活の音、働く音等々。
音のある処に安心があり元気が出てくる。
この度のイベントで私が一番印象に残ったのは木村文彦さんのスチールパンを中心とした3名で演じたパーカッションでした。運河の水の音…人の往来…船の行き交う音…作業場の音…古びたクレーンの動く鈍い音…自然(水)と人間の生活との絶妙の調和が醸し出されており、正直ビックリ致しました。
其の他、和太鼓、ダンス、ギター演奏、中学校の吹奏楽、障害者の参加など、地域ぐるみで賑わった河畔のイベントは本当に良かったと思うとともに私たちの一人一人が小さな自己の満足とか安心のみを求めるのではなく、今、自分の出来ることを地域に、社会に、人々に働きかけてゆく勇気と行動力こそが必要ではなかろうかと思う。
神戸大学の関係者の皆様、本当にご苦労様でした。ありがとうございました。

運河の音楽感想19

出演者の小田寛一朗さんの感想です。「動き箱」の件とは何か‥?


なかなかああいう大規模なイベント(特に野外の)は自分でやろうと思ってもできないので、参加させてもらって、感謝です。たくさんのひととの出会いもありました。
 とくに幸弘さんの考えは、自分のとけっこう近いような気がしています。昨日はなしていて面白かったのは、60年代に寺山修司さんたちが観客を挑発するべく「外に出て」いろいろやっていたけれど、現在には現在の「外への出かた(観客や環境との関わり方」があるんじゃないか、という問題意識は、とても近いものを感じました。
 あとは、「動き箱」の件、たいへん申し訳ないです。。警備の警察の方が、何人かの観客から、変なものがある、、との訴えを受けたらしく。。あれは、たしかに置き方がものすごく微妙なところで、、たとえば、箱がピンクやイエローなどの綺麗な色に塗ってあれば、対岸の風船と相まって、不審には見えなかったでしょうし、それでなくても、ひとつじゃなく、たくさんあれば、また見え方が違ったと思います。
 箱が動いているのがなんか面白い、という見え方より、この場所・状況(スロープ下の空き地)にある箱が動いているのは不審だ、という見え方の方が勝ってしまったのは、「置き方」の問題ですね。
 場所・状況の良い面を引き出す、というよりも、逆に場所・状況の悪い(ネガティブな)面を引き出してしまったようです。ああいう種類の空き地のネガティブイメージというか。だからこそ、フェンスで囲ってあるし、中の植木も綺麗にしてあるんですよね。
 個々のひとの「どう見るか」という視点の設定が、「状況・文脈」に左右される、というのが明確にみえて、そういう意味で、勉強になるというか、面白いとは思いましたが、地域の人たち、観客の人たち、と一緒になってつくっていく、という趣旨とは、ずれてしまって申し訳なく思っています。(もちろん、よくもわるくも変化があるのは良い、という見方もありますが)不安にさせてしまった方にも申し訳ないです。
 というような、箱事件も含めて、いろんな物事が興味深く面白かったです。野外だと美術館とかギャラリーみたいに場所や文脈の囲い込みがないだけにほんといろんなことが起きるし、いろんな人がやってくるので、それだけでも面白いですよねー。自分の準備やら片付けやらで、他の出演者の方々の演奏、パフォーマンスをちゃんと観れなかったのが残念です。関さんと輪太鼓とブルーグラスサークルをちょっとだけと、のんと君の展示は観れました。「運河を聴く」にも参加したかったんですけどねー。チャリンコのブレーキをかけるときのキキーッという音で(笑)。
音遊びの会、音楽の広場、もちゃんと見たかったですね。。
 妹のはなしによると、音楽の広場で、「阪神大震災のときに戻る!地震のあった日に戻る!」と言ったちびっこがいたらしく、それもけっこう大事件というか、そういった鋭くも有意義な発想(決して悪ふざけではないと思います)をどういうふうに受け入れていくか、というのも面白さだなと思いました。
 たいへん長くなってしまいましたが、ほんとに面白かったです。参加させてもらえたことに感謝です。

運河の音楽感想18

本番でのPAをお願いした若尾先生の感想です。


たいへんに刺激的でおもしろい試みと思いました。シュトックハウゼンの《家の音楽》、ジョン・ケージの《ミュージサーカス》、マリー・シェーファーの《公園の音楽》など、場を音楽にするという試みにはいままでずっと惹かれてきました。
 こういったことを実現するまでに関わったみなさんのご努力と行動力にはただただ感服するばかりです。こういった企画がこれからもコミュニティーアートの一つの試みとして続けられていくことを望みます。その意味で、今回の実現は画期的なことだったのではないでしょうか? 
 ただ、私は朝からPAを仰せつかり、ずっと働いておりましたので、見聞できたのは、何と言いますか、普通の部活の様子だけでした。みなさんのお話から、さまざまなアーティストがそれぞれおもしろそうな仕事を全力で行われていた様子がうかがわれるだけにとても残念です。なので、この企画について批評らしきことは書けませんので、全体の問題として感じた問題提起を簡単に試みます。
 今回のプロジェクトは、さまざまな意図や思いの活動をある場に編集するという姿勢だったと思います。これが組み合わさって一つのメッセージやコンセプションとなるということになり、それは人の行うさまざまなアーティスティックな活動をセレブレイトする祝祭的空間を生み出していたと思います。
 ひとつ私が感じた問題点は、ではそのセレブレイションを参加者がみな共有していたかどうかという点です。はい、おつかれさん、で終わったとするならちょっと寂しい気がします。人によってその受け取り方は確かにさまざまであってよいと思いますが、やはり後にその祝祭的エートスの共有が残ってほしいものだと思います。
 ではそれはどうすれば共有されるかというところですが、そこがまさにアートとしてのコミュニティーアートの重要な課題だと思われるのです。われわれが取り組んでいるのは、単なる住民参加の芸術祭でもなく、ケージやシェーファーのような一人のアーティストのコンセプトで作り上げる現代芸術でもない、新しいアートの形を実験であると思いたいのです。
 プロデューサーの野村幸弘さんはそういった点を十分意識され、考えられる限りにおいて実に適格な態度で制作にあたられた思います。にも関わらず上記のような点を敢えて指摘したのは、この実験の今後の課題を明確にするためです。
 例えば川俣正さんは、多くの時間をかけて制作活動を住民や参加者と行いながら、そのプロジェクトの意図を共有していきます。これとわれわれのプロジェクトと、ただ単純に比較しよういうのではありませんが、川俣プロジェクトには濃密な時間と労力がうんとかかっていて、それが意図の共有を可能にしているという点を指摘しておきます。しかし、私はこのやり方がいいと言っているのではありません。これは川俣さんなりの一つのやり方です。私が言いたいことは、ではわれわれにはどのようなやり方が考えられるだろうか?ということです。そしてコミュニティーアートは、その思考からすでに始まっているということです。