運河の音楽感想18

本番でのPAをお願いした若尾先生の感想です。


たいへんに刺激的でおもしろい試みと思いました。シュトックハウゼンの《家の音楽》、ジョン・ケージの《ミュージサーカス》、マリー・シェーファーの《公園の音楽》など、場を音楽にするという試みにはいままでずっと惹かれてきました。
 こういったことを実現するまでに関わったみなさんのご努力と行動力にはただただ感服するばかりです。こういった企画がこれからもコミュニティーアートの一つの試みとして続けられていくことを望みます。その意味で、今回の実現は画期的なことだったのではないでしょうか? 
 ただ、私は朝からPAを仰せつかり、ずっと働いておりましたので、見聞できたのは、何と言いますか、普通の部活の様子だけでした。みなさんのお話から、さまざまなアーティストがそれぞれおもしろそうな仕事を全力で行われていた様子がうかがわれるだけにとても残念です。なので、この企画について批評らしきことは書けませんので、全体の問題として感じた問題提起を簡単に試みます。
 今回のプロジェクトは、さまざまな意図や思いの活動をある場に編集するという姿勢だったと思います。これが組み合わさって一つのメッセージやコンセプションとなるということになり、それは人の行うさまざまなアーティスティックな活動をセレブレイトする祝祭的空間を生み出していたと思います。
 ひとつ私が感じた問題点は、ではそのセレブレイションを参加者がみな共有していたかどうかという点です。はい、おつかれさん、で終わったとするならちょっと寂しい気がします。人によってその受け取り方は確かにさまざまであってよいと思いますが、やはり後にその祝祭的エートスの共有が残ってほしいものだと思います。
 ではそれはどうすれば共有されるかというところですが、そこがまさにアートとしてのコミュニティーアートの重要な課題だと思われるのです。われわれが取り組んでいるのは、単なる住民参加の芸術祭でもなく、ケージやシェーファーのような一人のアーティストのコンセプトで作り上げる現代芸術でもない、新しいアートの形を実験であると思いたいのです。
 プロデューサーの野村幸弘さんはそういった点を十分意識され、考えられる限りにおいて実に適格な態度で制作にあたられた思います。にも関わらず上記のような点を敢えて指摘したのは、この実験の今後の課題を明確にするためです。
 例えば川俣正さんは、多くの時間をかけて制作活動を住民や参加者と行いながら、そのプロジェクトの意図を共有していきます。これとわれわれのプロジェクトと、ただ単純に比較しよういうのではありませんが、川俣プロジェクトには濃密な時間と労力がうんとかかっていて、それが意図の共有を可能にしているという点を指摘しておきます。しかし、私はこのやり方がいいと言っているのではありません。これは川俣さんなりの一つのやり方です。私が言いたいことは、ではわれわれにはどのようなやり方が考えられるだろうか?ということです。そしてコミュニティーアートは、その思考からすでに始まっているということです。