運河の音楽感想9

徹夜の作業、会場周辺へのポスティングなど、フットワークの軽さで様々な仕事をしてくれた多田さんの感想です。長文ですが、読みごたえあります!



《運河の音楽》感想文による報告書         地域広報担当:多田 桃子

●はじめに
この企画の中心人物の一人沼田苑子さんから誘われて加わった《運河の音楽》制作スタッフだったが、当初は自分にできることを考えず「おもしろそう!」という感じだけで参加したいと思った。
それ以前に手にしていた仮チラシで催し物のことは知っていたが、詳しい内容については把握できていなかった。
だから誘われてすぐに私は苑子さんから兵庫津の浦のガイドマップをもとに簡単な説明を受け、当日は途中である時間帯だけ現場を離れなければならないという条件であったが参加させていただくことなる。
《運河の音楽》のスタッフとしてはじめて活動したのは、その翌日2月3日のスタッフミーティングだった。そこで初めてスタッフ数名および参加アーティストにあう。
そのさらに翌日、この日は途中参加であったが同じようにミーティングに参加。
そしてしばらく日をおいて競技ダンス部の見学そして兵庫運河でレガッタ試乗など、まずは《運河の音楽》とはどんなものなのか、体験しながら、あるいはスタッフとコミュニケーションをとりながら、それはどんな事をしようとしているのか考えるきっかけとなる。
それからこの日は総監督の野村幸弘さんも神戸に来られていて夜は親睦会に出席した。私にとってこれは実質上のスタッフ顔合わせだった。
翌日は野村さん、苑子さん、竹内さんに案内してもらいながらコースをまわる。地図で見ていただけでは想像できなかったものや事がたくさんあった。実際にコースを歩いてみると、場所になんとなく愛着がわいた。さすがロケハンスタッフの選びだした場所。
何かできることはないかと、参加するからには何か仕事がしたいと私は思っていたが、《運河の音楽》すでに半年近く活動しているため、組織の事もこの催し物の事も全体における共通意識がなかなか掴めなかったため、私に何が出来るかもわからない状態であった。
一つの作品として(またはそれを支えるスタッフとして)成功させるためには、少なからず共通する目的意識と仕事を円滑に進められるコミュニケーションが必要で、参加メンバーの事をほとんど知らない私はとても戸惑った。
私にできることを探す
まずはこの企画の目的や意義、それぞれの立場、関連する人々、場所、パフォーマンスについて少しでも情報がほしいと思い模索した。
ブログを見たりMLの古いものを順番に読んだり、しかしそれらに費やせる時間は限られており、なかなか他のスタッフに追いつくことができなかった。



何かできることはないかと現地にも何度か足を運んだ。朝、昼、夜。仕事やその他の都合からさまざまな時間帯になったが、それが逆にこの土地のいろいろな顔に出会うきっかけとなった。
工場の多い地域の夜は暗く静かであったり、ある場所のお昼は想像以上に人でにぎわっていたり、車通りの多いところ、人が移動する時間、どんな暮らしがあって、どんな人が居て、どのように一日が過ぎていくのか…。
生まれ育った自分の住んでいるところではそんなことは改まって感じてみることはないのだが、全く知らない土地にきてみてその土地々にはテンポがあることを実感する。
運河のそばを歩き、横目で、耳で運河の存在を感じながらの行動であったが、風の強い日は波立つ水面、雨の強い日は普段は穏やかな運河が雨音で慌ただしくなったり、夜になってのっぺりとしてほとんど水音のしない運河を不気味に感じたり、運河のいろいろな顔にも出会った。
余談だがこのように運河の存在を意識するのは私が軽い渓流のある小さな川のそばで育ったからかもしれない。
現地調査を何度か行って、自宅から少し遠いということもあり、気がつけば一度運河まで出かけると調査のために何時間か歩き回るという行動パターンを繰り返していた。そうしていると開催日に疲れてしんどくなる人はいないだろうか?とかお手洗いに急に行きたくなる子どもはいないだろうかとか、よそもので心細かった私にとってはそれら現地の方たちならばさほど気にはならないだろうことがとても重大なことに思えてきた。
さらにその思いを増幅させた理由として、私の既成概念が起因していたとも思われる。
なぜなら私が今までに関わった演奏会といえば、コンサートホールや劇場でお客様を招いて迎える立場にあるか、楽屋設備のあるところでプロセニアムアーチや舞台、袖、幕など舞台と客席を隔てた環境で出演者としてであったため、その常識を元にした発想からでは、これではよくないかもしれないと思い込んでしまったのである。
だから設備は整えられないが場所ごとにお手洗いや救護場所などターミナルがあったらどうだろうと考えた。
その場でその場に起こったことに対して、何らかのアクション、リアクションがあるというところに価値がある「場所を生かした音楽会」においては、たとえアクシデントから発端する出来事だったとしても、その全てが、そのままあるべきであるのが相応しいかもしれないと何度も後になって思った。そして私が一人騒ぎ立てるのも馬鹿らしいかもしれないとも思った。
ただし今回は地域コミュニティとの連携アート作品という視点から、やはり安全や案内の基盤はあってもよいのではという思いも反面あった。大事に至らないようにする予備対策という意味合いでだ。
私の考えを企画の沼田さんお二人に伝えた。お二人の想定していなかった(というより想定はされていたがそれほど大きな問題ではなかった?) 事を取りざたし戸惑われていたかもしれない。でも行動することを許可してくれた。
そして行動開始するには想像していたより勇気が必要であった。何にもなしに地域の中に飛び込むのもおそらく私一人では怪しまれるだろうし、私自身がこの《運河の音楽》という催し物の全貌についてまだまだ未知の状態であった。何か起こるかもしれないし何も起こらないかもしれない。
実際に行動を起こしてからも、私の単独暴走でこの企画自体を振り回し迷惑をかけてしまわないか行動しながら常に心配になった。
近辺のお店を回ることを勝手に思い込み決めて、許可をもらったその時点で本チラシの完成を待った。チラシが完成したらそれをもって地域のお店を訪問する広報活動開始となる。
チラシの完成を待っている間にはどのあたりにどのように訪問するか、また何を伝えるのか何をお願いするのか手段と目的について考える期間となったのだが、相手のことも分からないので想像や妄想だけが大きくなってしまっていた。              
この期間にも大幅に遅刻ながら参加した発送作業や、その他のミーティングなどで制作スタッフと一緒に活動することがあったのだがやはりまだほかのスタッフと意識の違いを自覚していた。



●行動開始
動き出してからはまずはコースから歩いていける範囲で自由に人が出入りできるお店を探す。条件はお手洗いがあるところ。
手始めはドック近辺から。お店屋さんに入るとそこでは普段の喫茶店の顔があった。店員さんは常連さんとのやり取りや店の中のいろいろな仕事に従事していて、そんなところにお邪魔してチラシを渡すにも少し勇気が必要だった。しかし接客業という仕事の性質上からかこちらの話には耳を傾けて下さった。
そんな中、お手洗いのお願いに理解を示し対応して下さる意向のお店もあり、どんな感じでどのくらいの観衆が、いつお手洗いを利用されるのかと、逆に質問を受けたが、私のほうも幻聴音楽界についての情報は少なく観衆のイメージが掴めておらず回答できなくて困った。また地域を巻き込んだコミュニュティアートに関しても認識が甘く説明するのが難しかった。
トイレに関しては、たいがいの場合は「普段の営業の邪魔にならないか」ということがポイントとなっているようであった。私の想像の域だが、古くからそこで営業されていてこのドックあたりの労働者の方々の食事や憩いの場所を提供されているのだろうと感じた。
普段の生活の場で繰り返される日常の中にお邪魔する、その事が“場所を借りるのだ”いう意識につながった。それと同時にこの場所を借りるのだから土地の人には、日常とは違うその場所に出会うことで運河の音楽を楽しんでもらいたいと思う。強制ではないが広報活動がその一つのきっかけとなれればと思った。
以上のように飲食店を訪問し、まずはコース内でお手洗いのスポットを確保した。
この後にはコースは町に隣接する場所も多く、お寺や芸術工房に施設提供をお願いしに行くことになる。
当初広報は二の次で、チラシを設置してもらうことしか知恵がなかった私だったが、あるお店側の提案で掲示してもらうことを覚える。
この初期広報の段階でコース以外の道を歩いたことで寺社、企業、市営住宅などの集合住宅に目が行くようになる。このころによそからやってきてお手洗い借用する場所を探すより地域内の観衆を集めることに意識が移り始めたのかもしれない。地域の広報掲示板や回覧板、公民館などのコミュニティスポットにも目がいくが、それらがどのような団体の誰の管理上にあるのかよく分からなくて手が回らなかった。
単純なことなのだが、近隣の方々が観衆として来てくださるならば私よりも近辺の情報は多いだろうし、私のしていることは本当に取り越し苦労となるなと思った。



●地域の方々にコンタクト
地域広報に関して報告や相談を両沼田さんにしていたのだが寺社について相談したら第一土曜日の会への参加をすすめられ第一土曜日の会=土一の会に参加する。(この時も用事のため大幅に遅刻した)そこで和田神社の奥田宮司から近隣の寺社について情報をもらい後日さっそく伺いに回る。
寺を回りながら、お参りもせずにこのようなお願いにだけ回るのは心苦しいと思い始める。やはり訪問する先にはその場所にふさわしい立場があると感じた。すべてのお寺は快く話を聞いてくださったが、なかなかトイレを自由開放しているところはなく、その中で真光寺と柳泉寺が貸してくださる事となった。

コース内にターミナルポイントと観衆の流れに沿ってお手洗いが確保できたところで訪問活動は少し落ち着く。
次はこれらの情報を紙面にて伝えるものにする仕事が待っていた。
私は開催日が無事晴れた場合、途中で用事のために現場を離れる必要があり、当日は誘導係として最初から最後までプログラムに同行する予定ではなかったので、近辺の情報を必要ならば第三者に活用していただくようにしなければならなかったのだ。
案内地図帳を作るのは予想以上に私には困難であった。
どんな大きさの地図を用意したら土地勘のない人にもわかりやすいか。
矢印や文字をたくさんつけ足そうとしたが私の持っている設備と技術ではそのような地図が作成できなかったし黒白でプリントしてしまうとごちゃごちゃしたものは見づらくなった。
そのほか片手で持てる、道中持ち運びで邪魔にならない大きさなどいくつかの点を考慮した。
構想や下書きは出来上がっていたが配布できるものとして完成したのは開催日直前のことであった。



ここだけの話、完成前に地図を見ながら現地を歩き確かめたつもりであったが、やっぱり間違いはいくつかあったように思う。



●広報係としての任務の意義について
地域を回り始めたころ、催し物に関する私の持っている情報は「運河で音楽会を開きます。運河にそったいろいろな場所で音楽や踊りがあります。(しかし“音楽や踊り”という言葉だけで片付けられないものもあったためパフォーマンスという言葉でごまかしたりもした)」ということだけであった。
企画書を預かっていたものの、その企画書の内容についても理解が浅く、聞き手に理解してもらうために解る言葉に変える事によって、少し情報の内容の意味やニュアンスが変わってしまっていたかもしれない。
言葉のあやで、間違った語句を使ったこともあった。
後から振り返りどんな言い方が伝わりやすいかいろいろ考えた。
それからなるべく自分の言葉としてこの催しものの内容を伝えたかったのでパフォーマーに接する機会や実際の内容を確認できるリハーサルにも時間の許す限り出かけていった。
そうすることによって私なりにだがパフォーマンス毎の特徴を理解して広報の時に伝え方を工夫した(つもりである)。
なによりも私自身がそれらの作品に接する機会を楽しんでいた。そしてその楽しさ素晴らしさ面白さ巧みさを伝えたい、私が言うより実際に体験してほしいと心から感じていたのだ。それが私のお節介の動力になっていた。



パフォーマーだけではなく地域の方にもお会いする機会をいくつかいただいた。キャナルレガッタの艇庫の人々も和田神社に集まる土一の会のメンバーも浜山小学校区の定例会の役員の方々などであるが、しかし、地域の組織や決まりなどに関してはもとより、地元でもコミュニティ自体に関して存在や役割について私は今まで意識したことがなかったため役職や名前ですら(土地についてもそうだが) なかなか覚えられなかった。
地域の方々にかかわりながら組織のことや街づくりのこと社会に対して主体的に接することはどのようなことか少し肌で感じることができた。
そこには地域や暮らしの中の大切な事に関するエッセンスがあるようにも感じた。
世代や仕事、役職、普段の仕事では全く違うところにいる人たちがあつまり相談したり報告したりする。そういったことが私にはとても新鮮に映った。



《運河の音楽》開催日も近づき、お天気は晴れが確実になったころにタイムスケジュールが確定しパフォーマンスの数や場所、時間などが詳細にきまったころポスティングをしておきたいと思った。それはなるべくたくさんの方々に会場にぶらりと足を運んでほしいことはもちろん、それ以外にこれまでに立ち会ったリハーサルからその音の大きさを実感していたからだった。
観衆としてならばもちろん心躍るそれらの音楽・音も一歩離れて普段の生活音の中から異質に浮かび上がって聞こえた場合、もし何か別の大事の中にある人の場合ならばうるさいと感じかねないと、ここまでの広報活動で(私の接し方にも問題があったのだとは思うが)温度差のある方とも接した私は思ったわけで、広報として事前のお知らせということも含めて、いいかえれば普段の生活の場としてそこにいて、知らぬうちに音を被る立場の方々に対してのお詫びをこめてであった。もちろん場を借りている以上は音を被る立場の方々には同じ被るならば観衆として楽しんで被ってもらえればお互いにとってありがたいことであると思ったことが一番であったのだが。
ポスティングに関しては準備があまりできずで、住宅が近接するキャナルプロムナード近辺、兵庫運河の浜山小学校付近の市営住宅及び一戸建ての住居数軒に本チラシとお知らせのお手紙をポスティングさせていただいただけだったのだが。そのほかには藤井まどかさんが自身のパフォーマンス場所の近隣住居にポスティングしてくださったらしい。
私のほうは浜山のあたりの方では、音楽の広場のWS後の艇庫ミーティングの帰りに西さん中島(香織)さんに手伝ってもらい行った。すでに日は落ちてあたりは暗かったので3人で行ってよかったと思う。
キャナルプロムナード近辺は開催日の前日の夕方前に艇庫の自転車を借りて行った。
その他直前の広報として、ドック近辺では工場作業所が多いため土日休みの場所となるのでポスティングは行わず、しかし普段そこで働いている方たちに普段と違うドックを体験するために来場してほしいと思いチラシ手渡しでお知らせした。日が経って忘れられないように直前に行った。印象的だったのは、お昼ごろに行った時には取りつく島のなかったドックあたりの作業所の人々が、終業間近では穏やかで、こちらからのチラシ配布の働きかけに快く関心を示してくれた事。気のいい人たちの仕事とは別の顔に出会い仕事に対する真剣さを感じた出来事だった。



●広報活動を通して
経過をたどってみれば明確なのだが私の広報活動は、行動して気づくことがあれば場合に応じた方法を選択し目的も達成されるなどして変化していったのだが、それは目的の本質は《運河の音楽》を成功させるという事に変わらずあり、そのうえで個別な目的・手段は複合的になり土地の人々へより善く働きかけられるように心がけた結果だった。

うまくはないが、スマートではないが私なりの誠意をもって行った…つもりである。

本番を見た感想
当日は集合時間より少し早く現地入りをした。
朝ミーティングを行い、当日誘導スタッフとして参加して下さる方々を苑子さんがコースを逆行しつつ案内する。その際にスタッフに配布させてもらった私の作成した近辺のトイレマップの補足事項を連絡していった。
私はその一行にキャナルプロムナードまで同行する。そこからは中央市場前駅の出口に案内代わりとしてのポスター掲示を済ませてアルチザン工房へ、そこで駐車場誘導と施設番を担当した。
誘導スタッフ一行として本番前のぴんと張った緊張感とわくわくする期待感あふれる各パフォーマンス場所を見学しながら本番が見られない残念さを思う。
道中、小田さんのインスタレーションのテープを発見し拾って行きたかったが、まだ始まっていなかったためそのままにしておく。残念。もしそのときすでに始まっていたら立場はスタッフではあるが拾っていたと思う。
キャナルプロムナードに着くと、前日が休日だったこともありブルーグラスバンドのパフォーマンスエリアにゴミが目立つ。ちょっとは予測していたので拾おうと思ってビニル袋を持ってきていたが、気になりながらも時間が取れず駐車場誘導の番に従事する。



私が唯一見ることができた本番は、キャナルプロムナードで駐車場案内をして番をしていた時に聞こえてきたホラ貝の響きに始まった。
キャナルプロムナードでのプログラムの定刻ごろ、そろそろはじまるなと思いつつも、《運河の音楽》側のスタッフとして、開放して頂いている建物の番をしていたために場所を離れること出来ず、会場の様子を見に行くことができなかった。始まったのかどうかも分からないなか、あたりがにわかにざわめきはじめたかと思うと、ホラ貝らしき音が聞こえた後にあの大音響の太鼓の音がはっきりと聞こえてきた。
しばらくしてアルチザン工房の人が戻り(しかし前日に急に台数が変わったため、アルチザン側の方々の車が路駐状態で目を離すことができなかった)、建物内からは出ることができたので意識は残しながらも、少し通りに出てパフォーマンスを見ることができた。
私の居たところは太鼓とダンスのパフォーマンスとブルーグラスのパフォーマンスの中間地点。左を見れば舞台としてセットされた空間と演者・観衆の関係の人だかり。右を見ればブルーグラスバンドパフォーマンスによる颯爽としたあるいはのどかな弦のサウンドとそれを楽しむカップルや家族連れのちょっとした輪の癒しの空間。そちらは公園などではありがちな風景に思えた。不思議な日常性と非日常性の対置。しかしそれらどちらも本当はこの場所においては非日常の出来事である。
プログラムが終了し、私が場を離れなければならない時間になってもブルーグラスの演奏は続いていたため、声をかけにその空間に近づくと朝はごみが散らかって閑散としていた空間が、きれいにゴミが片付けられていることに気がついた。朝の風景とはまったく異なる幸せな感じが場所に溢れているように感じ、ひとつ“場所の音楽会”の魅力を発見した気分になった。
ここから私は少しの時間帯現場を離れる。
現場に戻ったのはフィナーレ直後の御崎公園駅であった。



終了後に撤収のために訪問した店舗などを回った時のこと      
地下鉄海岸線の二駅向こうで賛美歌2曲歌いフラワーシャワーで祝福して運河に戻った時には無事催し物が終了していた。
本番を味わえなかったのはとても残念だったのだが、スタッフ、パフォーマーの達成感に満ちたそして少し日焼けした顔を見た時にはとても嬉しくなった。お汁粉の打ち上げが終わった後に訪問したところにお礼と撤収に回らなければという思いに自然に駆られ艇庫の自転車を借りて一軒一軒回った。
チラシ掲示の確認や、チラシの補充や直前の挨拶にも行けなくて、しかし付近を通過するときなどは気にはしていたのだが、実質としては一度お願いに行った後はコンタクトをとっていなかった。だから忘れられていないか心配だったのだが、チラシを掲示してくれて覚えていてくれている所がほとんどであって、こちらに失礼があったにも関わらず…、ありがたくそしてうれしく思った。逆に話を熱心に聞いていてくれたようで本当は全然聞いてくれていない人もいることも事実として感じられ少し落ち込みもした。それもこれも興奮のため、わーっとなっている私には整理される余裕もなくすべてありのままに重ねられていた。
未知の時、徒歩の時ではあれほど時間がかかった経路はわずか1時間半ほどで回ることができた。



自転車で走っている時に全体の打ち上げが始まったことを感じながら、ここまでのことをいろいろ思い返していた。何度も歩いて見慣れた道や思わぬ近道やまわり道を知った時のこと、道を間違えるときの自分の癖、お店の人とのやり取りや店の中の感じなど。
広報をする時は単独行動が多かったけれど、それも全体のミーティングやリハーサルの見学、MLなどでスタッフや主演者の動向を知り時にはコンタクトをとり、情報を得たりして、どこかで繋がっていたから不思議と行動する力がわいたのだということも感じていた。
そういうことが心底楽しかったのだと思う。そして艇庫に戻った頃は、打ち上げは開始から時間も経過して、少し涙顔の関係者、お酒を飲んで出来上がっている人、社交場として名刺を交換する人、名刺ではなくアートやパフォーマンスの情報交換をする人々、実際に踊りをみせてくれたダンサーの方々などで艇庫はにぎわっていた。
社交場が苦手だった私は打ち上げ係補助という任務もあり厨房付近にいた。にぎわう人たちを見るのも嬉しかったし、1日艇庫番をしてくれていた方々と話をするのも楽しかった。厨房のカウンターにやってくる人からその日の様子を語ってもらい、それから何よりも涙が出てしまったのが来てくださった方のアンケート。
開催したことに対する反応を知ることができるこれらの情報は、文字からだがその文字はその場での手書きのため生き生きとしていて私の中に感動を生んだ。
このように見聞きした感想はそれぞれの方々の見た世界かもしれないが、それらを通してパフォーマンスの様子、この《運河の音楽》の印象を私に伝えた。
打ち上げは夜遅くまで続き、話はとどまることを知らず、あちらこちらでたくさんの花を咲かせていたため、いろいろな話を聞きたかった私は遅くまで残り、終電組として艇庫を発った。この日はそのままつかれて床に就いたが興奮していたのか目をつぶってもいろいろなことが思い出されてなかなか眠れなかった。本番に同行していなかったのに、誰かの記事に読んだようにその日一日見聞きしたすべての物事が《運河の音楽》の中にあるように錯覚していた。
翌朝は撤収のお手伝いに昼過ぎに艇庫に到着した。その後1週間たってもまだまだ本番当日の興奮が冷めやまなかったように思う。