運河の音楽感想5

出演者や観客の休憩場となった、浜山小学校でずっと番をしてくれていたスタッフの感想です。


『運河の音楽』
〜浜山小学校でオトを愉しむ〜


薄井良子


文字通り、当日になってはじめて現地を訪れた「当日スタッフ」の私が、このイベントの「開演ベル」を聞いたのが、最寄りの地下鉄「御崎公園駅」の東改札口で、「なじみ」のポスターに出会ったときだった。
メーリングリストで報告されていく進捗状況を「読んで」いたとはいえ、体験をわかちあってはいなかった私も、かろうじてこのポスターのもとになる「ちらし」の製作過程だけは、たまたま、ちらし製作担当者と「作業空間」を共有して仕事をしていたので、製作者の産みの苦しみのようなものをそばで感じていた。
それだけに、このポスターを見たときは、それまでスタッフの発想力・行動力が産んだこのイベントが、雲といえば飛行機雲しかないほど、どこまでも青さが広がる今日の空のように、時間や空間の制限を越えて広がりゆくことを予感した。
 私の仕事場は浜山小学校。多目的ホールのトイレ利用者やここを待機場所とするイベント出演者の便宜に配慮することが仕事である。具体的にはスタッフ用に提供していただいたクラブハウスにいて、来訪者があると対応するというものだった。このクラブハウスからは来訪者があるかどうかを見渡せる場所ではなかったので、「足音」を感じたら、出て行き、応対していくことを重ねた。


「足音」を感じるためには、自然と耳をすますようになる。待機を始めたお昼過ぎは、トイレ利用者もほとんどなく、聞こえてくるのは往来する自転車と外の道路をゆきかう人の話し声と、多目的ホールを吹き抜ける風の音だけだった。2時を過ぎると、「足音」が聞こえだす。トイレ利用者だ。小学校の門は、運河側の車両通用門と東門が開放されていたのだが、車両通用門から入ってくると、靴を脱いでじゅうたんの上を歩くので、くぐもった足音、東門からは入ってくると、靴の底面と床が共鳴する音になる。また、考えてみれば当たりまえなのだが、「足音」に人の声が伴奏のようについているときは、来訪者はきまって複数である。そんな分析を楽しんでいたところ、スタッスタッスタッと軽快な足音が聞こえてきた。それまでのトイレ利用者の恐る恐るといった遠慮さがまったく感じられない足音だ。いったい誰だと思って出てみると、様子を見に来てくださった浜山小学校の教頭先生だった。
そうこうするうちに、イベント出演者が訪れると、多目的ホールが足音と人の声で埋まっていく。待機中のメンバー同士の歓談の音に加え、それぞれの団体が「演目」に出て行くときの音、「演目」からもどってきたときの音が、時間差で重なっていく。このときは、ちょうど『運河の音楽』が、浜山小学校の近くで展開されているので、開放された窓から、イベント参加者の声も聞こえてくる。
出演者が去り、イベントも終了時刻を迎えるころになると、また往来する自転車とゆきかう人の話し声と、風の音だけになった。そして日差しが多目的ホールから消えていくころになり、開放していた窓を閉めると、音といえば私が出すものだけになった。


こうして6時間ほどのあいだ、多目的ホールに醸し出された音のクレッシェンドからデクレッシェンドに身をおいていた。『運河の音楽』というイベントには、全貌を把握するどころか、具体的に何が行われていたのか、その一端すら見聞することはできなかったが、『運河の音楽』というイベントがもたらした仕事を通じて、私は日常生活や、現代GPのいままでのイベントでは経験したことのないような音との対話を体感することができた。当日スタッフとして、私だけが感じえた『運河の音楽』だったと思っている。