和田岬の歴史

今日は歴史関連で、文学部→歴史散歩と回ってきました。「歴史」に対して、全く異なる立場から関っている二団体と会えたのが印象的でした。
午前中は文学部の添田仁先生(日本近代史専門)と坂江渉先生(日本古代史専門)にお会いしました。

内容は主に
①大学と地域とのコラボレートの仕方
②資料や関係者の紹介が可能ということ
③このプロジェクトでどのように関わることができるか について。


・「兵庫津」とか「運河」とかキーワードを絞れば、専門の先生を紹介することも出来る。
・兵庫津あたりは、もともと「兵庫王国」ともいうべき独自に栄えた地域。
・神戸ドック周辺は、江戸時代にも北前船の船着場、つまりドックだった。
阪神大震災で被災した歴史資料保全のために開設した「歴史資料ネットワーク」
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~macchan/welcome.html 
・書籍:歴史資料ネットワーク編 『神戸と平家』
・書籍:同『地域社会から見た「源平合戦」』
・古い写真や文書資料などは、神戸市文書館や神戸市博物館で閲覧可能。
・尼崎にも実は運河がある(!)。そこもまちづくりマップなど作成し
 活発に活動しているので、連絡をとってノウハウなど聞いてみては。

先生は、乗ってくるとウミガメ話や歴史雑学エピソードなど、どんどん脱線して面白い話をしてくれそうでした。「ここにはこんなおもしろい○○があってねー!」という、研究者の好奇心のモトを感じました。






14時からは和田岬の歴史散歩に参加。
参加者は、沼田(り)、沼田(そ)、中島、橋本、三宅の5名。担当は、岡部さん、山内さん、山田さん、という3人のおじさま達。それぞれ手製の資料を携えて、和田神社に集合。遅れてきたメンバーを待ちながら、古地図のコピーを広げて、早くも熱いレクチャーが始まります。



今日のコースは、和田神社を北上し防災絵画パネル→薬仙寺→清盛橋を渡り、清盛塚・琵琶塚・清盛像→キャナルプロムナードを通過し能福寺(兵庫大仏)→古代大和田の泊の石椋→築島寺→七宮神社→鎮守稲荷神社→JR神戸駅方面へ、という欲張りプラン。パンフレットの「兵庫津の道2」に準じています。



ざっと場所を見ただけでも、いろんな時代の遺跡が混在していて、複雑な時代背景があることが分かります。おじさん達のレクチャーもあちらからこちらへ、自由に話が行きかい、彼ら同士の「歴史談義」も楽しい。単なる知識だけでなく、その真贋や経緯について、おじさん達独自の意見が次々と開陳されるのです。


たくさんの逸話や、パンフレットに載っていない史実も聞きましたが歴史散歩のおじさんたちの話でいちばんリアルなのは、平氏や兵庫津などの史実そのものよりも、戦争や震災の経験と遺跡との関連でした。例えば、神戸大空襲で一帯がすべて焼けてしまったこと、運河をなめるように火が回り、運河に逃げた人たちは皆死んでしまったが海へ逃げた人は助かったこと、自分の家に焼夷弾が落ちてきてそれを放り出すのにどれだけ苦労したか、など運河沿いを歩きながら話してくれるのです。清盛塚では、空襲時に焼けた石の部分や震災で崩壊した部分を補修した跡を指差して教えてくれました。震災のときにたくさんの神社の鳥居や、そこにある遺跡が崩れて再建したこと、兵庫大仏が戦時中の金物供出で鉄砲玉になってしまい、数十年後ようやく再建したこと、など。

もともと歴史好きだった方ばかりではないようで、震災の後街の歴史を見直そうという風潮が生まれた、とも言っておられました。おじさんたちの生きてきた記憶と、震災の後改めて土地の歴史に注目し、今では歴史ガイドボランティアとして私たちと連れ立って町を歩くことの意味、これが今回私の印象に残った事柄です。

文学部と歴史散歩、に参加してみて、この地域は古くからの歴史豊かなところだが、例えば「平家との関わり」「運河の変遷」「兵庫津の栄華」といった具体的な内容は、すでにまちおこしとの関連でパンフレットやモニュメント、イベントなどがある。今回の「運河の音楽」の中心テーマは、アートで関わることによってその場所が持つ意味をどう新しく変換し浮上させることができるか、にかかっている。なので、文学部からのパネル展示の提案や、歴史散歩とのタイアップという案もあるが、これまでの歴史的推移をそのまま辿るのではなく、例えば”土地の記憶”といったキーワードで、サウンドアートや
それに準じるパフォーマンスを考えたほうがいいのではないか。 などと思いました。
(記録:三宅博子)