運河はすでに音楽だった

プログラム内容より。

「運河はすでに音楽だった」

野村幸弘

 演奏者やオーディオに向き合い、音源を確かめて聴くのはかなり特別な経験で、
ふだんぼくらはいろんな音を聞いていても、それがどこから聞こえてくるのか、
あまり気にしていない。じっさい虫や鳥の鳴き声、隣室や廊下での人の声、往来
のクルマ、ヘリや飛行機の音など、見えないところから聞こえてくる音は、日常
の中で意外に多い。音が外の世界で鳴っているのか、あるいは自分の頭の中だけ
で鳴っているのか判然としない、そんな日常の聴取体験と地続きで行われるのが、
「幻聴音楽会」だ。だからこの音楽会はホールを飛び出して、どんどん街へ出て
行くのである。


 これまでさまざまな場所でいくどとなく「幻聴音楽会」を開いてきたが、終了
後に、観客のだれかがかならず「わたしが住んでいる街にも面白い場所があるの
で、そこで幻聴音楽会をやりませんか?」と声をかけてくるのだった。去年の春、
浜松で開いた「街路の音楽」と題する幻聴音楽会を神戸から見に来て、飛び入り
で出演した沼田里衣さんもそのひとりだ。すごく楽しそうな顔で「こういうのを
神戸でもやりたいですねえ」と言ったのが始まりだった。


 その年の秋に、神戸大学で「幻聴音楽会」についてのプレゼンテーションをし
たあと、大学院生たちが候補にあげていた場所に案内してもらい、神戸の街を一
望できる摩耶山から、震災の甚大な被害から復興した長田町商店街、独特な味わ
いのある旧居留地、広大な兵庫運河、細い路地の中の稲荷商店街、海を埋め立て
て最近完成した神戸空港まで、丸一日をかけ見て回った。そのなかでもっとも惹
かれた場所のひとつが兵庫運河で、ぼくら「ロケハン隊」は、全員一致でここを
「幻聴音楽会」の会場にすることを決めた。


 いっけん運河はとても静かで、ひと気もなかったが、神戸大学の院生たちが地
域に入り込んで調べていくうちに、そこでは住民のじつに精力的な活動が行われ
ていることがわかってきた。レガッタ競技会、運河祭り、清盛祭り、戦没者のた
めに鎮魂のほら貝を吹く修験道者、高齢者施設のハンドベルグループ、中学校の
ブラスバンド、和太鼓のグループ、仕出し屋のハーモニカ名人…。
運河の見かけの静寂と、地域の人たちの熱意の対比がぼくの想像力を刺激した。
運河周辺の人たちや、神戸の市民、学生、アーティストが、運河の河べりに集結
し、そこをゆっくりと散策したり、舟に乗ったり、音を出したり、踊ったりする。
そんな運河と人との出会いを組織したいと思った。


その出会いを組織するために、まずぼく自身が多くの人たちと出会っていくこ
とになった。ぼくは神戸に招かれた「ゲスト」として、数多くの「ホスト」の歓
待を受けた。ぼくの知らないところでサイが振られて進む「すごろく」みたいに、
行く先々で新たな人に出会っては話を聞き、「幻聴音楽会」の説明をする。話は
かならず運河にまつわること、14年前の震災、64年前の戦災のことにまで及んだ。
どの人に出会っても、運河とともに歩んできたその人の人生のショート・ストー
リーを聞く思いだった。


そうして運河沿いを東から西へ歩きながら、造船所、釣り舟の停泊所、材木を
上げ下ろしするクレーンの設置場所、そして広大な矩形のレガッタ競技場など、
魅力的なポイントがほぼ等間隔で見つかっていった。これらの場所で、神戸大学
の学生たちと、地元、あるいは近隣都市のアーティストたちが共同で音楽やダン
スやインスタレーション行うというプランがじょじょに固まった。
それにはほんとうに数多くの人たちから貴重な情報を得た。地域に入って街作り
を支援する区役所の職員の方々、レガッタの艇庫に集まる人たちの親密なネット
ワーク、運河沿いに立地する企業の理解と協力、そして神戸大学の学生スタッフ
のめざましい行動力。それらがみごとに連携して、ほんの2、3ヶ月の間に、プロ
グラムがどんどん作られて行ったのである。


運河に面して閉じていたと思われた企業や工場が、ある時点から急に開かれて
いき、思いもかけない内部の魅力を見せると、そのたびに新たなアイディアが浮
かび、演目が増えた。静かだった運河は、水面に波紋が広がり、まるで強力な磁
石のように周辺の潜在力を引きよせ、たしかな磁場を作り始めたような気がした。
 今年に入って2月の初旬に、音楽会全体の流れを把握するため、もういちど運
河沿いを歩いてみた。そうすると、橋をまたぐごとに運河の見せる表情が変わる
ことがはっきりとわかった。直行し湾曲し、さまざまな角度で折れ曲がり、幅が
広くなり狭くなる運河の形態は、さながらシンフォニーの形式のようだった。第
1楽章 神戸ドック、第2楽章 キャナル・プロムナード、第3楽章 日清製粉
 第4楽章 材木工場 第5楽章 レガッタ競技場…。


ぼくらがここに来る以前に、運河はすでに音楽だったのだ。


その運河の音楽を聴くために、ぼくらは舟に乗る。舟に乗って音楽を聴きに行
く。 運河の音楽を、運河沿いの歩道から順番に聴いていくのもいいし、舟に乗って
第2楽章だけ、あるいはだ5楽章だけを聴きにいくのもいい。音楽に出会いにいっ
たり、音楽を追いかけたり、そんな自由な音楽の聴き方、そしてまた音を通した
新たな風景の見方ができるのも、「幻聴音楽会」ならではの醍醐味だ。


かつては運輸でにぎわっていたこの運河の活気を、今はアートが取り戻す。
「幻聴音楽会」が、そのささやかなきっかけになれば、とぼくは願っている。